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「親ガチャ」について思うこと
「親ガチャ」というワードが最近のネットでは議論を読んでいるらしい。
「親ガチャ」は不謹慎ワードなのか ネットで連日激論、芸能人も続々「参戦」
経済的に恵まれていたり、性格が優れていて子供に信頼されたりする親がいる一方で、子供が望まないことを無理強いしたり、ネグレクトしたり、ひどい場合は暴力を含む虐待行為に及ぶ親もいる。しかし、当然子供は自ら親を選ぶことができないため、ソシャゲのガチャのように、良い親を持つか悪い親を持つかは運次第という状況を指す言葉らしい。
これに対して賛否両論、「ガチャ」という言い回しは不謹慎、実際の状況を言い得てるなどあるようだ。
個人的には、この言葉を使いたくないし、耳にも入れたいとは思わないが、このワードに対して生まれている議論で、子供の不幸が広く知られることについては良いことと思っている。
親のエゴや能力、姿勢などによって、一定の子供が不幸になっていることは、事実である。
経済的に恵まれずに大学に行けない子供、親から虐待・ネグレクトを受ける子供など、大変な不幸を被っている子供は、世の中に一定数いる。
独り立ちできない年代の子供は、親から提供される環境がほとんどすべてで、そこから逃れることはできない。そして、どの親のもとに生まれるかというのは、運がすべてである。
もちろん、傑出した能力や涙ぐましい努力によって、そのような環境を乗り越える例外的なケースがあるのは承知しており、私の周りにも実在する。
しかし、あくまで「例外」でしかない。
経済的な格差は世代を経て引き継がれるといった研究もあるし、東大生の親の所得が高いといった研究もある。一般的には家庭環境が子供の人生を大きく左右する要素であるということに、異論は少ないだろう。
このように恵まれない家庭環境に育つ子供が、自らの境遇を「親ガチャ」と嘆くことは、確かに言いえており、子供の不幸がインパクトを持って伝わると思う。
しかし、それでも私はこの「親ガチャ」という呼び方を歓迎したくない。
子供が被っている不幸というのは相対的なものであって、ガチャに当たったとか、外れたというのは、乱暴な言い方と思われるからである。
例えば、平均的な経済環境で平均的なものを買い与えられ、平均的な愛情を受け、平均的な教育を受けている子供が、金持ちの友人を見て羨むばかり、自分の親と対比して「親ガチャ」と言ってしまうようなケースも起こりうる。
このようなケースは、最低限の責務を果たしている親に対して失礼であるし、親としても大変悲しい気持ちになると思う。子供も将来発言を後悔してしまうことになるだろう。
「親ガチャ」という言葉は、このようなケースも含めて十把一絡げにして使われてしまう可能性がある。
ただし、不幸というのはとても主観的なもので、これが議論を難しいものにしている。本当は「平均」なんか決めることはできないだろう。「当たり前」という言葉に言い換えれば、すこしは適切かもしれない(それでも表現として不足しているが)。
子供が親から与えられるものは、時代や環境によって変化するもので、親が子供への愛情表現として当たり前と思っていても、子供にとっては当たり前でない可能性はある。
わかりやすい例として、一昔前では躾の一環として子供を殴るのは当たり前だったが、現代では虐待とみなされる可能性が高い。
また、金持ちが多い地域に住んでいる場合は、周りの子供がほかの地域より高いお小遣いを与えられていていて、親が当たり前と思って与えているお小遣いは、実は他より少ないかもしれない。
このように親と子供で認識がすれ違うから、この問題は難しくて、賛否両論、議論を呼んでいるのだろう。
いずれにしても、この言葉が広く使われるようにはなってほしくない。さして深刻な状況にない子供までもが、この言葉を使うようになってしまうと、親が傷つくだけでなく、子供自身も将来自分の発言を後悔してしまう。それだけ暴力的な言葉だと思う。